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LIFE | yuki ota

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01/23/2015
by lazy_planet
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「子どもと一緒にスローに暮らす」ことの困難

webshopや雑貨・カフェなどを運営する「くらすこと」をメインに活動している、
藤田ゆみさんの著作「子どもと一緒にスローに暮らすお母さんの本」を読んだ。

その文章や「くらすこと」のサイトからも、スローな暮らし・穏やかさを大切にする姿勢は十分に伝わってくる。
その藤田さんの子育て観のつまった一冊。

こうした子育ての心得本は、読んだときには確かに、その通りだな、と思うものの、実際にはすぐに忘れがちになってしまう。
読んでいて、はっと気づかされることも多いものの、実際にその通りに日常の自分の生活に取り入れるのは、難しく、ただ、その空気感を感じ取り、子どもとの時間を少し、ゆっくりと見つめてみる。時々、手に取って振り返ってみる。それくらいが、ちょうどいいのかもしれない。

いくつか、気になった文章を引用。

ちゃんと自分の力で大きくなれるって子どもを信じ、本人が本当の助けを必要としているときにだけ、そっと手を出す。

先の予定を話さない。
今だけを生きる子どもたちが、子どもの時間を生きられるように。

「お母さん」がゆとりや余裕をもって、子どもと接するのには、ずいぶんせわしない世の中になってしまっている。
効率化や生産性の向上は、仕事だけでなく生活の場にも浸透している一方で、育児はある意味、効率性とは全く反対の性質を要求する。

いつも、忙しさに追われているときに、思い出すのは星野道夫さんの「旅をする木」の一節だ。

自然番組を撮りに来たテレビ局のスタッフが、うまく捗らず、ただ時間が過ぎていく悪条件に、焦りやいら立ちを感じていたときの、星野さんの言葉だ。

「それよりも一日のうち十五分でも三十分でもいいから、仕事のことをすべて忘れて、今ここに自分がいて、花が咲いていたり、風が吹いていたり、遥かな北極海のほとりでキャンプしていることをしっかり見ておかないと、こんな場所にはなかなか来れないんだから、すごくもったいない気がすると・・・私たちが生きることができるのは、過去でも未来でもなく、ただ今しかないのだと。」

育児において、自分の思い通りにいかない、焦りやいら立ちは沢山ある。
だからこそ、スローに子どもと暮らすことは困難を極めるのだが、子どもと過ごす時間もなかなか貴重なものなんだから、
今ここに自分がいて、子どもがいて、泣いたり、怒ったり、笑いあったりするこの時間をしっかりと感じなければ、すごくもったいない気がするのだ、と。

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01/15/2015
by lazy_planet
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「残念な夫」産後クライシスを考える

フジテレビで現在放映されている「残念な夫」第一回の放映を見て、思うこと。
たぶん、もうなかなか見れないので(ドラマを連続で見れるとは限らない、のが子育てクラスタでもある)、とりあえずの感想。

ユニコーンのBGMとともに、テンポよく産後クライシスを描く、うまく戯画化されたドラマだなぁ、というのが第一印象。
同時に、自分の失敗を省みる部分も多く、見てていたたまれない気分にもなる。

出産後に夫婦の愛情が急速に冷え込み、夫婦仲に大きな危機が訪れるこの現象を「産後クライシス」として、
NHKが報じたのが2012年9月。(『産後クライシス』内田明香・坪井健人著より)
大反響が起こり、新書が出版され、多くの育児クラスタで話題になった。

それは「イクメン」が流行りはじめて、男性も子育てに積極的に参加する傾向が高まったことで、より問題が顕在化している。
昭和的な働き方・考え方であれば、そもそもが仕事・家庭の分業なので、最初から夫の家庭への働きには期待していない。

夫が家事・育児も行うようになった、妻も当たり前のように仕事を続けるようになった。
その環境の変化に対し、社会的な価値観・実態が適応していない、ということが問題の根本にある。

実際に初めて親になる二人が、初めての育児をするのに、問題が起きないわけがない。
うまく母乳を飲んでくれない・夜泣きで頻繁に起こされる・終わりのないおむつ替え。
24時間つきっきりで見ていないとすぐに息絶えてしまうような、未完成の形で子どもは世界に放り出される。

そんな授乳期が特に、夫婦間の育児に対する姿勢に相違が出やすい。

「母乳を与える」ことを除けば、男でも赤ちゃんに対してできないことは、何もない。
にもかかわらず、母側の負担がどうしても重くなる。

理由はいくつも考えられる。

単純に労働時間の長い夫の育児時間が少ない。
核家族化・地域社会の疎遠化により、妻の相談・救済先がない。
未だに残る母性神話・昭和的ジェンダー観による男性の非協力。
そして出産の激しい痛みを感じた母のほうが、母になる自覚・責任が芽生えるのが早く、強い。

出産によって、キャリアをシフトしなければならないのは、今や女性だけではない。
共働きでお互いの仕事を尊重しあいつつ、さらに育児も分担して行う、ということは女性の努力だけではどうにもならない。

では実際に、男性はどうすればいいのだろうか。
個人的には
・「母乳を与える」以外の家事・育児はすべて自分が請け負うつもりで行う(実際、無理でも)。
・一か月だけでも、労働時間の短縮(残業をしない等も含め)・育児休暇の取得を行う。
くらい男性側が高い意識をしていないと、産後クライシスは回避できないと思う。

もっと、男性に求めるものが多くてもいいと思う。
そして多くを求められた男性が、自分自身のキャリアを壊さずに働き続けられる世の中になってほしい。

今、労働人口の減少に伴い、女性が継続して活躍できる社会を作ろう、という機運がようやく高まってきているが、
男性に対しては、未だ長時間労働のバリキャリ以外の選択肢に対し、冷たい。

育児をしている男性は職場で、専業主婦を持つ男性・独身男性の仕事と競争をしている。
その過当な競争から降りない限り、妻からは「残念な夫」とみなされるような社会・風潮をどのようにして変化させるか。

いわゆる「長時間労働の是正」の課題解決に対し、対応できる解が少ない。
今のところ、男性も女性も「理解ある職場」に転職をする(あるいは新卒時に入社しておく)、という選択肢しかない。
誰もが、効率的に仕事も育児もこなせる、スーパーマンになることはできない。

産後クライシスの結果、一番犠牲になるのは生まれた子どもである。

ただ、それでも育児は本当に大変でドタバタ劇の連続だけど、とても面白い。
その面白さをもっとこうしたドラマで伝えてくれるとありがたいな、と思う。

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01/14/2015
by lazy_planet
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「文庫女子」フェアについて思うこと

紀伊国屋渋谷店で男性店員が選んだらしい、「女性に読んでほしい本」フェアではなく・・・

株式会社トーハンが出版社12社と連動し、開催した第1回「文庫女子」フェアについて。
出版社12社と連動し、第1回「文庫女子」フェア開催

「本当は女子にこんな文庫を読んで欲しいのだ」というのは、おそらくこちらのフェアに対する書店員の抵抗なのだと思う。

その抵抗を読者に押し付けたことが炎上に結び付いた一番の原因じゃないかと思われるが、
元々の「文庫女子」フェア自体、確かにとても時代錯誤というか、的外れな施策に思える。

個人的には、本が大好きで、本をもっと多くの人に読んでもらいたい、という思いからこうした工夫を試みる出版社・書店員の努力を認めたい気持ちはあるが、
「特定の本を読んでいる」ことをファッション化することにすごく違和感がある。

「この本を読んでいるからオシャレ」って、どういうフェアの展開をしても、上から目線だったり、
ちょっと小ばかにされている、試されているなどといった感がぬぐえない。

手軽に読めて、ジャンルも題材も様々で、さらっと読めるものもあれば、小難しいものもある・
そんな多様性を一つのサイズに統一し価格も抑えた書籍が「文庫」であり、「文庫」の良さだと思う。

特定のタイトルの文庫を勧めることは、その読者の多様性を極端に狭めてしまう。

「文庫」をカバンに忍ばせることを流行らせたいなら、オリジナルブックカバーをデザインするとか、限定のデザインしおりをつけるとか、
そっちのほうが良かったんじゃないだろうか。

実際、大阪の梅田ロフトで行われた約100人のブックカバー展などはとても大好評だった。

そんなこと知ってるし、今までもさんざんやってきたよ、というのが出版・書店関係者の本音かもしれないが、
このフェア、第1回を終えて、そしてその反動のフェアの「炎上」を経て、果たして第2回はあるのだろうか。

追記:
ちゃんとこういうの、やってるね。こっちのほうが好きだな。
素敵なブックカバーを紹介してくれて嬉しい。町の本屋さんを応援してくれて嬉しい。
第1回e-honブックカバーコンテスト

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12/18/2014
by lazy_planet
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月の裏側/レヴィ・ストロースの日本びいき

少し、日本びいきにすぎるような、レヴィ・ストロースによる日本に対する語り。

日本の美意識文化の根源を縄文精神に見出し、様々な文化に驚くべき順応性を持ち独自の日本文化を築いてきたと評する。
日本は、主体から思考を出発させない。ちょうどデカルトの「我思うゆえに我あり」の否定のように。
自分を取り巻く環境から自分自身を規定する。

そのため、「日本とは何か」という問いに対し、自分自身もあいまいにしか答えることができない。
日本人は「日本的な何か」を持ちながら、資本主義を受け入れ、近代化を成功させた。
日本文化の特殊性は、ときに両極端にあるものを隣り合わせにするような順応性にある。

「日本的ななにか」。それらの精神やそれを保持しようとする環境は、一部では過剰な排外性を持つ集団になり、
あるいはグローバル化のもとの均質化の危機にさらされている。
行き過ぎた日本の賞賛は、日本的なものに対する壁をかえって高くしてしまう。
しかし、あえて境界をひかず、様々に取り入れられた各々のものの基本的な要素を同時に強調することで、
より多くの豊かさを日本人は獲得している。

日本は、国土の2/3を占める野生の部分を放置し、都市にすべての資本を一極集中しているが、
一方で月の裏側からの視座では、それらは野生の部分を尊重してきたとみなすこともできる。
また日本人から見ると、雑然とした東京の街は、彼から言わせれば自由らしくていいじゃないか、ということらしい。

安易にこれらの視座を乱用することは偏った愛国精神になりかねない。
実際に、いま「日本」を定義するなかで「日本ならざるもの」が持ち上げられ、愛国さらには神国!といった過熱した右傾化議論がネット上でも散見される。

しかし、レヴィ・ストロースは、日本人は「社会全体が必要としている役割を満たそうとする、それでいてまったく寛いだ感じでそれを行う」とほめる。
そうした彼の贈り物のような賞賛を真摯に受け止めて、この不思議に発達した文化を新たな変容を受け入れつつ、日常にそれらを喜びとして感じられるようにしたい。

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08/18/2013
by lazy_planet
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ビールと古本のプラハ/チェコのビアホール

チェコのビアホールは面白そうだ。

本書を読んで、ぜひ行きたくなった。まずビールがうまそう。
そしてそこでの人々の語らい、暗がりのなかで顔を赤らめた人たちの人生、
それらを垣間見ることの楽しさを感じさせる。

ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」を訳したチェコ語の研究者、千野栄一による、
タイトル通りのプラハのビールと古本に関するエッセイ。

チェコのビール通の飲み方、ビアホールの常連の話など、
まったく知らない異国の交流のさまが描かれていて、それが妙に情緒的に想像力を掻き立てる。

歴史や政治に文化が影響を受けやすい土地では古本に関する事情も変化が多い。
そうしたなかで変わらずにあるビアホール・バーでのひとときは、著者にとっても格別の時間だったと思う。

階段の七番目―ビールのちょうどよく冷える温度の場所

このことは覚えておきたい。