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LIFE | yuki ota

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08/31/2015
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大地の芸術祭と民俗泊物館。レポートの続き。

民泊レポート 8月25日-26日 昭和町

新潟県十日町市で行われている、大地の芸術祭・越後妻有トリエンナーレ2015、その作品の一つでもある民俗泊物館

ここの企画で、研究員として地元の方のお宅に泊めてもらい、いろんな話を伺い、町のお祭りに参加してきました。

 

初めて来た町で、初めて会った人たちと、初めて聞く民謡を踊る。とても不思議で面白い体験でした。

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まちの至るところ、山間の集落のあちこちに点在するアートが、自然とそこを訪れる町の人や住人との出会い、コミュニケーションをもたらしているようで、研究員としてお世話になったところ以外でも、不思議と会話が生まれていくのは、とても面白いものでした。

民泊で得られた体験は、レポートとして長々とまとめましたが、アートがその地域のなかでどのように受け止められているか?というのは、今回の旅のテーマでもありました。

1日目~2日目のことは、レポートにある通りですが、2日目以降にもアートと地域について感じるところはたくさんありました。

レポートの続き 松代・山ノ家

 

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トリエンナーレを始めて、約10年が過ぎ、各地でもこぞって地域での芸術祭(ビエンナーレやトリエンナーレ)が開かれるようになり、ようやくその先駆けともいえる大地の芸術祭では、町の人もそれらを受け入れ始めているようです。市内の中心街活性化チームとして動いているスタッフの一人は、芸術祭の拠点でもあるキナーレという施設で案内を行っており、芸術祭そのものにも関心が高く、民泊先のお世話になった方も芸術祭を肯定的にとらえていました。

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しかし、それはあくまで、「芸術祭」に関わる部分のみで、日常の生活にまではその影響が及んでいるわけでもないように感じられました。もともと冬になると全国有数の豪雪地帯で、1階部分は高床式にしている家が多数ある地域です。芸術祭の終わった雪深い季節にどれだけの人がここに集まるか。そしてその豪雪体験を共有することが、ここの日常でもあり、隣近所で助け合って生活をともにしていく、という要の部分でもあるような気がしています。民泊先でも、冬にも来てねーと軽く言われたものの、その壁は高く、困難なものだとなんとなく察しています。

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山ノ家

二日目の夜に泊まった「山ノ家」colocalなどの旅メディア等でも広く認知され、東京などの都市部からの訪問客も集めているものの、地元の人との交流はまだまだ少ないようでした。

実際に、芸術祭開催期間中以外では、客足も全然途絶えてしまい、地元の人に入ってもらうには、どこかヨソモノ感が漂う空間になってしまっているようです。また、冬の期間には、殆ど店自体も開いていないとのことです。厳しい冬に、東京に戻ることもできるのが、都市と地方を行き来できる境界に生きる人の利点でもあり、それ自体は否定されるものではないのですが、一方でまだまだ浮いた感じの「常設アート」になってしまっているようにも感じられました。

地元のお祭りが開かれていたその夜も、表通りの人通りはわずかで、たしかに集落の人口の少ない地域ですが、それ以上に宿泊客として利用している僕にもどこか冷たい印象が感じられたのは、一日目に民泊という形で地元の人に直に接触していたからかもしれません。

今年でオープンして3年目というのに、スタッフも基本的にカフェの中での仕事に追われ、お祭りの概要を把握していなかったようで、今年はようやく「茶もっこ」という形で外にかき氷屋を出したりして、わずかながらに参加しているような形を取っていました。

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多拠点居住を掲げ、都市部の人の第二の故郷としてのオープンスペースを作り上げている「山ノ家」はたしかに、地元の人から見れば異質なものなのかもしれません。一方で、質の高い空間を作り上げ、一定の客層の琴線に触れる魅力を持つ場所であるのは確かです。地元へ溶け込むことと、特別感を出すことのバランスを保ちつつ、息の長い運営をしていくのは、想像以上に苦労があることと思います。

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今回、アート参加者が、松代のお祭りのなかでパフォーマンスを行う姿も見られました。少し奇異の目で見られていましたが、不思議となじんでいて楽しそうでした。一時的な滞在者でもあるアーティストが住人たちのもともとの日常の中に入りこんでいくには、時間と相応のエネルギーを要するものだと思いますが、その面白さを体験し、伝え、また訪れた人に感じてもらう、そうしたことを続けていければ、アートが地域にもたらす良い効用として、古くからの住人も新しい住人も変わっていくのではないかという可能性もまた感じました。

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最後に、レポートのまとめの文章を再掲します。今回、偶然にも市街地のお宅に泊めてもらいましたが、僕が初めて体験した地域の芸術祭もまた、甲府の街中で行われたものでした。そのとき感じた面白さの根源をもっともっと知りたい、という気持ちは今も続いています。

 

まとめ

大地の芸術祭の行われているこの十日町市にとって、アートは日常のなかに置かれた非日常なのかもしれない。あるいはそれが徐々に新しい日常になりつつあるのかもしれない。

一方で、ここを訪れる私たちのような外からの人間は、アートもこの場所の自然も、暮らしも全てが非日常として体験される。山梨で「こうふのまちの芸術祭」を主催する五味文子氏は“誰かの日常は別の誰かにとって奇跡みたいだ”(民藝運動としてのアートフェスティバル/「アサヒビールメセナvol.27」2010)と述べる。

たぶんそれは正しくて、でも私たちが日々経験している私たちの日常が、他の誰かにとって奇跡みたいな非日常である、と気づくのは難しい。織物を学んだ彼女の言葉は、“まちという経糸に、アーティストという緯糸を織り込むことで、でき上がる可能性は無限大だ。そこで暮らす人間にとってはあたりまえのことも、外から来たアーティストにとっては、意外な面白みであったりする。”と続く。
アーティストに限らず、あたりまえの日常の中にある面白さは、生活の外から来た人全員が共通に感じることができるものです。

この面白さは、普段なんでもないと思っているようなところに転がっていて、なんでもない会話のなかから発見されるものでもあるのだと思います。「なんでこんなとこまで来たの?」とさんざん訝しがられたけど、こういうのが面白くて大好きなんだよなぁ、と思うからなんです。

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自分のところのお祭りで疲れ切って、逃げるようにやってきたけれど、またお祭りの楽しさを教えてもらいました。ありがとうございました。

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08/24/2015
by lazy_planet
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自治会・地域の仕事のさじ加減

今年、団地の自治会長をしていて、自治会のメインイベントの夏祭りがようやく終わった。

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8月は、夏祭りのオンパレードだった。市主催のお祭り、自治会連合(複数自治会主催の)盆踊り、保育園の夏祭り、そして、自分の団地の夏祭り。

他の夏祭りの手伝いをしながら、自分のところの夏祭り準備を主体で進めるのは非常に困難だった。

自治会連合に加盟していると、行政とのかかわりが深くなり、市政の下部組織としての自治会の位置づけが強くなる。こうした、お祭りごとや体育祭、敬老会などのさまざまなイベントに参加し、また手伝わなければならないが、その代わりPTA、福祉委員会、青少年対策委員会といった他の自治組織とのつながりが強くなり、地域の情報が入りやすくなる。また、事前の準備段階から、ポスター作りなどに子どもが関わることができ、盆踊りや夏祭りへの子どもの参加がしやすくなる。

 

団地の自治会員のなかにも、自治会連合への反対意見も多い一方、やはり子どものことを思うと・・・、というところでその主張もとどまっているのが現状だった。

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自治会の役員は、約20名だが、毎年入れ替わり、前年度役員はサポート役に回ることになっている。最近は、若い自治会長が3代続いていることもあって、データでの資料引き継ぎもスムーズにすすみ、通常の運営上の支障はそこまで無い。

一方で、夏祭りなどのイベントごとに関しては、運営役員だけでの人手では到底足りず、多くの自治会員の手伝いを必要とする。

毎年のことなので、長い間、毎年毎年やってきた人たちが要領よくやってくれ、お任せできる部分は完全にお任せしている。そうした点は、協力的な人が多くて、本当に助かっている。逆に、組織されて間もない自治会役員のほうが、何をしていいか分からない人が多い。役員になって、初めて夏祭りに参加した人も中にはいる。

そうすると、本来役員が仕切って動かなければいけない場面で、うまく役員が動けず、詳しいお手伝いさんが勝手に動く、という事態も発生する。それで、問題が起きなければいいが、要領を得ないうちに、自分の思っているとおりでないことをされたときにはやはりストレスを感じ、ときに些細な問題が生じたりする。

毎年やっていることとはいえ、物品が欠損したり、模擬店のメニュ-を変えたりと、前年の反省や今年の状況などを踏まえ、改善・変更している部分も多い。

それに対し、なかなか理解の得られない場面もある。なぜ、今年は違うのか、去年まではこうだった。これは無いのか?新たに出てきたこのやり方はどうするのか?もちろん、一つ一つ説明はするが、その説明に納得しようとせず、批判をしてくるようだと話がややこしくなる。

 

全体的には、多くの人が協力的で、各自がそれぞれのできる得意分野を手伝い、うまくやっていくことができ、大きな問題が起きることなく無事に終えることができた。

 

が、上記のような細かい部分での調整や些細な意見の食い違い、とりまとめなど、身体的なもの以上に精神的なストレスも大きなものだった。

毎年、役員が交代する以上、どうしても新しい人たちが、前の年のやりかたを踏襲しつつも、その年のカラーを出して行うことになり、それに対し、反発が起きることもある。

しかし、それを安易に古いやり方に固執する悪意を込めた表現で「老害」として括ることはできない。地域コミュニティを支えてきたのはそうした経験豊富な高齢者であり、彼らの協力なしでは、こうした祭りを開催することもできない。そして、老婆心は悪意から来るものではなく、だいたいが善意である。その善意を受け止めつつ、自分たちなりのやり方を理解してもらう必要がある。

古さと新しさの双方の立場を理解し、それらをインテグレーション(統合)する形で、まとめていく能力が自治会長に求められるのは間違いない。もちろん、僕にはそんな能力はなく、到底役不足であるし、そんなに会長の敷居を上げてしまうと、いったい次はだれが担っていけるのか、という話になる。

自主的に手を挙げてもらうことにはしているものの、輪番で回ってくる以上、基本的にはどんな人でもできるものでなくてはならない。

地域の仕事には、無駄だなぁと思うことや、もっと効率的にできるんじゃない?と思うことがある一方で、下手に敷居をあげると次の人ができなくなる、といったこともあるし、ボランティアで役員してるのに、仕事ぶりが悪いと批判されるほど報われない状況下だと、役員のなり手がどんどんいなくなる恐れもある。そのさじ加減は難しい。

 

だから、こうした自治組織はもっと、ゆるくテキトーでいいんじゃないか、と思っている。

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「地域」というただ住んでいる場所が同じというだけでつながっている、人と人との関係から成り立つ組織だ。いろんな立場の人がいて、いろんな意見の人がいて、それらをまとめるのは不可能だし、文句を言いたいだけの人もいる。

人と人との関係で成り立つものである以上、日頃の挨拶、付き合い、労い、声掛け、そういったことは気にかけて今後もやっていきたい。

でも、仕事の質や立ち回りについては、大目に見てほしいなぁ、という長い長い愚痴でした。

 

 

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08/06/2015
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『断片的なものの社会学』意味の無い断片の集まり

『断片的なものの社会学』を読む。

とても静かな断片的なものの著者の語りは、無数の小石のなかから拾い上げた「この小石」の無意味さの魅力を無邪気に語るようで、好きだ。

 

岸政彦さんは、ライフヒストリー研究の手法で、部落問題や沖縄の人たちの生活史を分析し、その過程で、多くの人の人生の語りと向き合っている。

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社会学研究のライフヒストリーの手法自体、大きな歴史の流れからこぼれた断片的な個人史を広い集めるものだけど、この本に書かれている断片的なものはその生活史からもこぼれ落ちてしまうような、微かでささいなものの集まりだった。

本当はそうしたささいなもので人の人生は成り立っていて、人が物語に乗せて語るもの以上にそこに面白さがある、とそれをとらえることもできる。

一方で、著者が強調するのは、それら断片的なものの無意味さである。

社会学者は、なにかにつけて、ある事象や事物を文脈に位置づけて、その意味や意義を分析しがちだ。(というか、それが仕事なんだけど)

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ただ、そうした対象となるもの以上に、無意味な断片は、この世界中に無数に転がっている。

それらは永遠に拾い上げられることのないものも含まれる。無意味なくだらないもの。断片的なもの。それらは解釈をすり抜けて、意識の外に置かれるか、分析できないものとして扱われる。

 

断片的なものがただ脈絡もなく置いてあるだけの人生は、失敗したり、裏切られたり何にもなれなかった自分の無意味な人生でもある。
でも、「その人生は遠い他の誰かにとっては意味のあるものになるかもしれない」というどこか祈りのような一文がある。

普通の人の普通の物語、普通の日常。それは、意味のないものであるけれど、意味のないものだからこそ、それを魅力的なものにしようとすることもできる。

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読むと、ただなんとなく家のまわりを散歩してみたくなった。

夏の暑さに、歩く人のほとんどいない昼間の住宅街にも、断片的な分析できないものが無数にあるような気がした。

 

08/03/2015
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『保育園義務教育化』具体的には?

<保育園義務教育化>

古市憲寿さんの『保育園義務教育化』を読みました。

タイトルのインパクトが強く、とても目を引く本なのですが、現状の保育についてやさしく平易な文章で書かれており、保育の問題点や、乳幼児教育の重要性など、できる限りデータに基づいて書かれています。

入門書的な位置づけなので、内容的には、日経DUALや日経Kids+を読まれていたり、日頃育児関連のニュースを敏感にチェックしている方にとっては、ほとんど既知の内容かと思います。

 

もう少し、踏み込んだ内容のものとしては、猪熊弘子さんの「子育て」という政治 少子化なのになぜ待機児童が生まれるのか? (角川SSC新書)という2014年発刊の新書があります。

子育て新制度が発表された直後の本で、制度の内容にも詳しく、また現状の保育制度の課題や財源の問題、など政策面を特に重点的に批判し、「政治」的な観点から、もっと権利を主張すべきという結論を述べています。

猪熊さんの本の冒頭にも、義務教育化に似た素朴な疑問が紹介されています。

「小学校に入れない子どもはいないのに、なぜ保育所に入れない子どもがいるのでしょう?」

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<現状の制度問題>

その答えは、猪熊さんの本のなかに詳しく書かれていますが、要約すると「子どもたちがなんらかの保育を受ける権利」を保障する法律が無いからです。

保育園の設置義務等に関する法令は、児童福祉法で定められていますが、実質その法律には「抜け穴」が多いことを猪熊さんは指摘しています。(下記、猪熊さんの著書出版以後の改正後の文章にて記載します。改正されていても、やはり抜け穴はあります)

児童福祉法第24条には、「市町村は、この法律及び子ども・子育て支援法の定めるところにより、保護者の労働又は疾病その他の事由により、その監護すべき乳児、幼児その他の児童について保育を必要とする場合において~当該児童を保育所において保育しなければならない。」とあります。

しかし、子ども・子育て支援法の制定とともに、第6項が改正され、必ずしも保育所をすべての子どもに入所させなくてもよい、条項として定められています。

「市町村は~やむを得ない事由により同法 に規定する施設型給付費若しくは特例施設型給付費又は~に係る保育(要は認可保育園の保育)を受けることが著しく困難であると認めるときは、次の措置を採ることができる。
一  当該保育を必要とする乳児・幼児を当該市町村の設置する保育所若しくは幼保連携型認定こども園に入所させ、又は当該市町村以外の者の設置する保育所若しくは幼保連携型認定こども園に入所を委託して、保育を行うこと。
二  当該保育を必要とする乳児・幼児に対して当該市町村が行う家庭的保育事業等による保育を行い、又は家庭的保育事業等を行う当該市町村以外の者に当該家庭的保育事業等により保育を行うことを委託すること。

これにより、仮に認可保育園への入所が困難な場合、認定子ども園、家庭的保育事業などへの委託を可能になりましたが、実際にそれらのサービスを受ける利用者は、公的な保育との比較のなかで、本当にそうした選択を行うのか、また同等程度の質で同等程度の金額で保育が受けられるのか、等、親の就労状況や家庭の事情など、子どもとは関係のない事象によって保育格差が生じてしまいます。

<義務教育化のメリット>

仮に義務教育化によって、子どもの保育を受ける権利が保障され、子どもに保育を受けさせる義務が生じる法律が成立した場合、市町村は、希望者の多寡にかかわらず、子どもを受け入れることになり、その受け皿を確保することが必須となります。

その内容についても、少なくとも公立・認可保育園の間での格差はなくなり、私立・認可外・現状の認定こども園・家庭的保育等の保育についても、第三者による管理・監督がより厳しくなり、一定以上の質を求められることとなります。

また、義務教育である以上、それらの保育は、給食費・体操服やお道具箱といった学習用具以外は、無償化されます。

たしかに、義務教育化はこうしてみるとメリットばかりです。

それでも、実現されないのは、一つには猪熊さんの述べる、「子育て世代の政治的影響力の弱さ」。もう一つには、明らかな「財源の不足」にあるのだと思います。

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<財源の可能性>

「政治的な影響力の弱さ」については、単純に子育て世代が労働も家事・育児も行わなければならない、もっとも忙しい世代であり政治的主張に時間がかけられない、といったことにも起因するかと思います。しかし、それ以上に、世代交代が激しい、という点も指摘されます。仮に今0歳の子どものいる保護者が保育園に入れないことを抗議し、政治的な活動を行っても、3年後には保育園の空きが出て、無事に保育園に入れてしまいます。すると、次の世代が自分たちと同じような苦労をしないように、というモチベーションが無ければ、活動は停滞してしまいます。

また、そうした抗議をあげる人を、無理やり保育園に入れてしまえば、もうその人は抗議の声を上げる必要はないのです。このことは猪熊さんの著書でも指摘されています。

そして、財源。

子ども・子育て支援法の制定に伴い、消費税増額分から約7000億円の恒常財源を確保されていますが、社会保障費全体からみると、わずかな金額でしかありません。

既存の枠組みからの拠出は難しく、新たな財源の制度を構築する必要があります。

2006年ごろに、介護保険と同様に「育児保険」制度を設ける、という議論が一時上がりました。

育児保険創設?政府の少子化対策明らかに(2006年05月16日付 All About より)

しかし、この当時の少子化対策はとにかく「てんこ盛り施策」で到底その実現には至りませんでした。

2009年に出された岐路に立つ保育園―社会保障審議会少子化対策特別部会はどんな未来を描いたかでは、当時の「育児保険」制度の構築に向けて、様々な議論が行われた結果、それらが困難であるという結論に至った経緯が示されています。

「保険」という制度を採択する場合、そのリスクが被保険者に等しく平均化あるいば分散化されるものであり、その拠出実績に基づいて給付を得るものとなります。つまり、「保育に欠ける子どもが発生する」リスクは誰にでも起こり得るものであり、すべての人がその保険料を負担し、そのリスクが発生した場合には、その給付を得る権利がある、というものですが、こうした保険の制度には当てはめにくいことは、なんとなく素人でも分かります。

子どもが産めない人、産まない人、結婚しない人、高齢者、すべての人がその負担をすることになるにも関わらず、その給付を受けるのは「リスクが発生する可能性のある被保険者のみ」という非対称の関係が生じます。リスクが普遍的でなく、保険としての同質性が担保されない以上、介護保険のような制度設計は難しい、と判断されたようです。

この点、古市さんの著書では、「子育てを頑張っている人のためなら負担するよ」という独身者の声を上げていますが、全てがすべてそんな人ばかりではないし、そうした優しい国ならば、これほど待機児童の問題は大きくなっていないでしょう。

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また、「育児支援納付金」の企業への義務付けという方法も考えられます。

これは「障害者雇用納付金制度」を育児支援に応用したものです。

障害者雇用納付金とは、中規模以上の企業に、常用雇用者数の2%にあたる人員を障害者雇用として採用することを義務づけたものであり、それに達成しない企業からは、不足人員に応じて納付金を徴収する、といった制度になります。

これは、障害者雇用を促進するために設けられた制度で、一定程度機能しているものと思われます。(実際に罰金を払わない企業もあると思われますが)

また、これと同時に障害者を採用した会社には、助成金が支払われる、4%以上雇用されている場合は、逆に報奨金を与えるなど、雇用を促進する制度も同時に盛り込まれています。

これと同様の制度として、「保育の必要が発生した社員に対し、企業内保育園の入園、在宅勤務、あるいは保育料の補助など、育児と勤務の両立を可能とする施策を講じる」企業には報奨金を、対策を講じていない企業に対しては納付金を徴収する、という制度を設計するのはどうでしょうか。

少なくとも、現状の助成金のみの政策よりは、企業における義務が発生することにより、一定程度の効果は上げられるものと予測されます。

また、こうすることで市町村や国だけの施策ではなくなり、保育園不足の解消のスピードアップも図ることができるのでは、と考えられます。

個人的には、この納付金制度をぜひ、より政策的に効果や制度設計などを検討して頂きたいところです。

<具体的施策の無さ>

最近、いろいろ時間があり、育児・保育に関わる本を読みあさっていますが、具体的な施策について、殆ど書かれていないものが目立ちます。古市さんの本も、義務教育化を謳っているものの、その具体的な内容はあまり触れられていません。ただ、理想としてそうあってほしい、という内容です。

制度的な問題は、これ以外にも多くあるかと思います。保育士不足の解消、保育士の待遇の改善なども、その必要性は増してくるかと思います。

保育の充実は、子どもにとっても親にとっても等しく重要なものです。個人にとって「保育を受ける権利」が保障され、「キャリアの断絶」が無くなることは、社会にとっても乳幼児教育の強化による教育的な効果、育児世代の労働人口の増加による経済効果など、さまざまなメリットも多いと思います。

きっと、霞が関内や、その他高等機関での研究では、より具体的な施策が検討されているかと思いますが、ぜひその優先順位を上げていただき、安保法制なんかより早急な政策実現をお願いしたいところです。

 

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07/31/2015
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『原発労働者』弱者の声を掬い取る表現者・寺尾紗穂

表現者としての寺尾紗穂さんが好きだ。

たぶん、渋谷の7thFloorあたりで、寺尾紗穂さんのライブを聴いたのがはじめだったと思う。その後、何度もライブには足を運んでいる。

ちょうど、「アジアの汗」を歌いだしたころだと思う。ちょっと変わった人だな、と思った。エコやサブカル、社会への反発を歌うようなロックなアーティストはこれまでも多くいたように思う。

でも、彼女のこの歌は、実際に会った人の声をくみ取って、彼女なりの伝え方(歌とピアノ)で伝えようとした、そんな歌だった。

地方の都市から東京に降り立ったとき、高くそびえたつ大きなビルに圧倒されがちだが、この街にはあふれるほどにあまりある人の群れがいて、その巨大なビルは、決して長い歴史や今現在の暮らしの中で光のあてられることのない大勢の下働きの労働者によって作られている。

このときから、一貫して彼女の姿勢、出発点は変わらない。

原発労働者 (講談社現代新書)

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平時の「原発労働者」に焦点を当てたこの新書も、対象を原発としているものの、「土方さん」を主人公としたノンフィクションの物語である。

純粋に知らないから、知りたい。もっと知ってほしいから、伝える。そうした素直な気持ちでいるからこそ、こうした声を掬い取れるのかもしれない。

原発で働いている人のことを私は知らない。

「土方さん」の仕事の闇は、原発に限ったことではない。
下請け構造が多層化している分野においては、どこも労働者の待遇はひどいのかもしれない。

そうした危険を理解しながらも、働かざるをえない人がいる。
貧しさ、人間関係、出自、家庭環境、障害、さまざまな背景とその人の仕事は結び付けられ、縛られている。

巨大なエネルギーを得るために、失われているものは何か。
寺尾紗穂さんは、その失われたもの、失われつつあるものに光を当てている。

多くの人は、議論を避ける、目を背けるだろう。中立的な冷静な大人のふりをして、「とりあえず、現状維持で徐々に代替エネルギーに減らしていこうよ、そうした技術の進歩を待とう。」と、涼しい部屋のなかで語る。そうしているまさにその瞬間にも、原発労働者は汗を流し、被曝し、働いている。

東日本大震災の事故のことで、一時的に原発の実態については注目されたものの、記憶の風化とともに確実にそれらは薄れてきている。

寺尾さん一人の力で、本書の内容だけで、彼ら労働者を救うことはできない。
歌をうたう彼女は、それだけでは救えないものがある、多くの状況に直面しているはずだ。
表現者としての彼女の伝えることは、こうした弱者の存在が支えているものの大きさであり、こうした弱者の存在そのものの大きさである。

いつも使っている電気、インフラ。それらはもっとも身近なものであるはずなのに、とても遠くのことに感じられてしまう。

「当事者性」を感じること、もっと弱者の声を掬い取り、彼らに寄り添い、自分のこととして考えること。その大切さを、静かに訴えているように思う。