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LIFE | yuki ota

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07/27/2015
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【大和郡山】金魚の町に行く。とほん・Kcoffee

ふと、思い立って、前から行って見たかった古本屋「とほん」さんに行く。

 

電車を乗り継いで、JR郡山駅まで。

駅を降りると、古い団地が見える、ウチとよく似た同じ規格のハコを並べた作り。変わらなさになにか安心する。

街を見たくて、駅からゆっくり歩く。このあたりは郡山城の城下町として、古い街並みが残り、昔ながらの蔵や木造建築も多い。

それらを眺めたり。ただ、古い民家で育てられている花や野菜を眺めたり。生活のにおいのしない空き家も多い。

古い家は手入れが大変そうだけど、木枠の窓や、厚いガラスブロックの壁など、今の建物にはない魅力がある。

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「とほん」さんは、やなぎまち商店街のちょうど端っこのほうにある。

商店街のいろいろな店の軒先に、大きな琺瑯でできた白い鉢が並んでいる。空っぽのものが多いが、水のなかで金魚が泳いでいるのもある。

その「たらい」は、毎月第4土曜日に「ひとたらい市」として、とほんやKcoffee前の金魚電話広場で使われるという。

ここは、金魚の町なんだ。

来るまで知らなかったけど、ここは金魚の日本三大生産地の一つである、という。

確かに、町のいたるところに金魚のモチーフが隠れている。

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商店街の途中で、「金魚休憩所」と書かれた一軒家のドアを開ける。ここにもたらいがある。

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そこで、商店街のガイドブックをもらった。「やなぎまち商店街くらし事典」。ここのオーナーの若い人が商店街の衰退に危機感を感じて作った、という。

いろんな地方の商店街で、こうした新しいガイドブックは作られている。それは、地域おこし協力隊の人だったり、都会でデザインを磨き、地元に戻ってきた若い人だったり、さまざまな新しい人の活躍と、それを応援する商店街のベテランの協力で成り立つ。

とても丁寧に作られた手書きの味のある冊子だった。

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それをもらって、いよいよ「とほん」さんへ。

とても開かれた軒先と、土間。店の外に置かれた古本の棚をじっくり眺めた後に、中へ。

いろんな雑貨もあれば、夏葉社さんをはじめセレクトされた新刊図書も多い。zineやリトルプレスの類いも多い。

とても雑多なものが好きな文学青年好みのセレクトで、僕好みでもある。

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「微花(かすか)」という、とても若いフォトグラファーの作ったzineのような小さな花の図鑑と、こないだ芥川賞を受賞した又吉直樹が作詞した「世田谷ピンポンズ」のCDを購入。

ついでにフリーペーパーの「のんびりvol.13」ももらい、店を出た。

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出てすぐのところに、脇に金魚の水槽となっている電話ボックスが置かれた、古いガソリンスタンドの広場がある。地元では「金魚電話広場」と呼ばれているらしい。

その奥にKcoffeeさんがある。スタンドでアイスコーヒーを飲んで、少し涼んでみる。夏休みなので、子連れのお客さんも多く、みんな金魚ボックスを見て楽しんでいる。

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とほんの店主が教えてくれた、金魚資料館のほうに向かう。こちらのほうへ行くと、水田のように見える金魚の養殖場があちこちに見えるという。

たしかに、水を張った水田のようなものがたくさん見えてきて、その奥に金魚資料館と書かれた建物がある。入場無料。

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金魚屋さんに併設されたギャラリーのよう。金魚にまつわる昔からの資料の展示や、珍しい金魚を飼育する水槽が並べられている。

ぐるっと見回して、昔の資料をじっくり眺める。さまざまな年代の「金魚の飼い方」という資料がある。それぞれの時代で飼い方は変わっていくだろうか、それとも受け継がれているのだろうか、読んでみたくなった。

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他にも、もらった地図のなかには気になる建物がいっぱいあったけれど、夏の日射しと、資料館までの道のりでかなりバテてしまったので、駅前の喫茶店でナポリタンを食べて帰った。

 

今度は、もっとじっくり商店街を回りたい。サンドイッチも食べたい。一眼レフも持っていこう。

面白い町だった。

 

 

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07/23/2015
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自分が持ちきれないもの

「持ちきれないものは捨てよう」

自分に対する戒めです。

 

前のエントリで何を悩んでいるんだろう、と漠然と考えていたけれど、ただ周りと比較しているだけなんだ、と気づきました。

自分が「病気」なんだろうか、「変」なんだろうか、と比較しているのは、同じように鬱を患った人の体験談を読んだり、そうした人と実際に話したりしたなかで、どこか自分の事例がそれらと一致しない部分を探したり、あるいはもっと早く治った人もいるのに、自分は全然治っているのかも自分でよくわからないし、何をやってるんだろう、というダメな思考に陥っていたようにも思います。

 

いまの自分は、「主夫」として、家庭を支えることを社会的役割として担うつもりで生活をしています。

でも、「主夫」している人って、これまたいろんな人がいて、やっぱりなかには「スーパー主夫」「カリスマ主夫」みたいな人がいるんですね。

それに比べたら、自分は・・・子どもは保育園に預けてて比較的時間に余裕もあって、でも妻にもいっぱい助けてもらってて、本当に「主夫やってる」って胸張ってていいんだろうか。

って思考に陥っていたことに気づきました。勝ち負けのあるような世界でもないのに。

 

これまでの自分は、そうした劣等感から脱するために、そうした思考の中で、「こんなに頑張っている人がいるんだから、もっと頑張らなきゃ」自分を追い込んで、勉強も仕事もやってきたように思います。

でも、そうやって自分を追い込むのはもう止めよう、競争のなかで得られるものの価値はもうそんなにない、と戒めたいと思います。

 

自分の手の届くところの範囲で、丁寧に日々の生活を暮らすこと。

家族で笑顔でいられること。

子どもが元気に育つこと。

 

自分が大切にしたいものを大切にするために、自分が持ちきれないものは差し出してしまおうと思います。

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07/13/2015
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うつ病の境界と甘えと

うつ病って診断されて、薬での処方と通院の治療を続けていて、一年以上も経つのに、自分では理解できず、判断できないことがある。

今も僕は「病気」の状態なんだろうか?

 

妻は、論理的に答える。

病気か病気じゃないか、の2択ではなく、その境界を行ったり来たりしていて、普通の人に気分の波があるように、その波が僕にもある。

それは、単純に二分化できるものではなく、いかに精神状態を自分でコントロールできるか、というものによるので、まだコントロールできている、という状態ではない、と。

 

ものの本にもそんなことが書かれているので、大体において正しいのだと思う。

 

それでも、しっくりこないのは、いつこの「治療」が終わるのか、終わりの見えない漠然とした不安と、そうした状態にも関わらず、娯楽も含めてさまざまな活動がある程度できているうしろめたさ、みたいなものをずっと感じているからだ。

いろんなものが楽しめるようになって、また人とも話せるようになって。

調子が上がってきて、就職もできるだろうと思って試みた結果、半月足らずで辞めてしまったことも、その思考を妨げる一つの要因になっている。

 

自分ではコントロールできている、というつもりでいたのに、いざ他人と向き合って立場や価値観の違う人とのコミュニケーションを取ると、以前はできていたはずのことが全くできていないことに嘆いてしまう。

同質性をもった集団のなかでは楽しんで過ごすことができるのに、異質な人と向き合い、仕事をするなかで、対立した意見に対しての抵抗力がひどく弱く、一挙手一投足すべて監視されているような気持になり一日の終わりには立っていられないくらいに疲労し、朝起きることができなくなる。

偶然、運悪く本当に意地の悪い人たちに囲まれてしまっただけかもしれない。でも、そうした人と一緒に働くことができない、ということが分かったとき、とてもショックを受けた。

 

これは、「甘え」か「性格」の問題なんだろうか。一旦クリアした問題に一周回ってぶつかってしまっている。

もちろんそれまで長い間働いてきて甘えの許されない場面も乗り越えてきたのに、発症してしまった「うつ病」はそうした性質のものじゃない、と理解しているだけれど、長い間、治療を続け、病気を続ける中で、初めは「病気」だ、と思っていたことがだんだん不明瞭になってしまっている。

 

治療を続けていて、治すつもりはあるのか?という話かもしれない。

治すための努力をするべきなのか、

そもそも努力するものなのか、

できるものなのか。

 

「自分なりの上手な病気との付き合い方を見つけなさい」という模範解答は、頭では分かっていても、生活する上においてあまりにも実感がなく、自分ではいま「上手に付き合っています」といえる状態なのかどうか判断がつかない。

もし、客観的に判断できる指標があるなら教えてほしい。

 

いま、一旦「会社での仕事」からは距離を置くことで、気持ちは安定している。

「主夫」としての役割を与えられることで、自分には価値がない、という気持ちも薄らいだ。

おかげで、自分の病気を隠さず、向き合うこともできた。

 

それでも、この先どうするんだろう?という漠然とした不安。そういった不安と誰もが対峙しながら生きていく世の中なのかもしれない。

自分だけが思っていることじゃないのだと思う。

みんな、どこか病んでいるけれど、それを隠しながら懸命に生きているような気がする。そうしないと生きられないから。

病気のお墨付きをもらった僕は、いつまでそれに甘えているんだろう。そんな、うしろめたさから逃れられずにいる。

 

「僕の病気はまだ治ってないのかな」

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07/10/2015
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しょうぶ学園と高木正勝の「生の芸術」

もう先々月の話なんですが、淡路島で行われた「ミライの学び舎」主催のミライの音楽祭というイベントに参加してきました。

お目当ては、しょうぶ学園otto&orabu高木正勝さんの演奏です。

予想以上に野性味あふれるイベントでびっくりしましたが、ライブは本当に素晴らしいものでした。

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しょうぶ学園otto&orabuは、知的障害者をはじめ、多くの障害者の利用する施設「しょうぶ学園」の利用者自身とスタッフで構成された音楽ユニットです。
しょうぶ学園では、単に障害のある人のケアをするだけでなく、彼ら自身に活動を求めています。音楽をはじめ、工芸・アートなどのものづくりを通して、自立支援・地域との関係構築・社会への発信を行っています。鹿児島にあるその施設内では、さまざまな創作活動を可能にしたり、工房・レストランなども併設されていて、全国的にも注目を集めています。

以前から、こうした障がい者施設での創作活動の場はあり、今では広くアール・ブリュット(生の芸術)としてアートの世界では認知されています。

アール・ブリュットは”正規の芸術教育を受けていない人による、技巧や流行に囚われない自由で無垢な表現、また作家の心のあり方に本質を置き、魂の叫びや無意識から生まれる多種多様な表現”と解釈されています。
実際に、生の演奏を初めて聴くことができ、とても心を揺さぶられました。

奇妙な「ズレ」のある不安定な音の重なり、そしてその自由な音の発生を一つの作品としてまとめ、リードする旋律。一つ一つの音の要素が一体となった演奏はとても心に響く、力強い生命力を感じさせるものでした。

彼らの描き出すもの、作りだす音は、一般的に見れば下手くそな音で、メロディもバラバラ、ヴァイオリンはギィーと不穏な音を鳴らし、リズムもずれていく。
でも、とても楽しそうに歌い、音を奏でています。単に彼らが「普通の日常」から逸脱しているから、こうした音が出せる、というのではなく、ただ彼らのやりたいように音を出しているからだと思います。

それは、とても新鮮なものでした。定型のメロディに合わせて歌う・弾くことが当たり前になっている私たちの日常の音楽が、そう思わせているのだと思います。

しょうぶ学園の活動は以前から知っていたけれど、彼らの音の魅力は実際に、体感しないと分からない、と思っていました。
本当に「すごい」と思える体感できる機会を得ることができ、とても満足しています。
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一方、高木正勝さんは、美しいメロディを多彩なアレンジを加えて、豊かな音楽を作り出しています。

それは、自然と心にすーっと入ってくる故郷のような音楽を感じさせます。

狂いのない音の運びは、しょうぶ学園の「ズレ」から生まれる音楽と、全く異なるようで、どこか同じものを感じさせます。繊細なメロディの底にある力強さに大いに揺さぶられる感覚です。

音楽とは何か、を突き詰めて考え形にしてきた才能ある芸術家が奏でる音は、とても自然な旋律で成り立っていますが、そこには、アール・ブリュットのような、心の底にある感情を純粋に表出させたものを感じさせます。

しょうぶ学園のライブの際は、高木さんは僕らと同じ客席に座り、楽しそうに笑顔で彼らの音楽を聴き、ライブ後にアンコールを促していました。

きっと、共感する部分が多く、彼の音楽にとても刺激を与えているのだと思います。

とても良質な音楽を聴くことができ、本当に良かったです。主催者の皆様、ありがとうございます。
アール・ブリュット アート 日本

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06/22/2015
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週に一度、病院に行く。

週に一度、心療内科でのカウンセリングを受けている。

うつ病の治療の場合でも、風邪でも同じかもしれないが、同じ症状でもそれに対する療法は医師によってかなり異なる。

同じ風邪の症状でも、とりあえず薬を多く出しておく医師もいれば、点滴で栄養補給をさせてさっさと回復させる医師もいれば、ほとんど何もしない医師もいる。

 

個人的にはどれがいいかということもなく、好みの問題だと思うので、合う合わない、という問題は内科においてもあると思う。

 

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こうした前置きが必要なのは、よく、うつ病で、合う先生が見つかるまで何軒も心療内科を転々とする、みたいなことが起きるからだ。

「うつ病」は、その個人によって本当にさまざまなとらえ方があり、個人の考え方や人生観、あるいは「うつ」に対する偏見などから、自分の訴える症状に対して本当に適切な対処をされているのかどうか、まったく分からない、ということがある。

そのため、薬をすぐに出してくれる先生、すぐに休みなさいという先生、薬は使わずに認知療法だけで対処する先生、様々な先生がやはりいて、そうした治療法での「合う、合わない問題」以上に、そのほかの病気に比べ、「この医師は信頼できる」とか「自分のことを分かってくれる」という患者と治療者のコミュニケーションにおける信頼関係が本当に重要になる。

少なくとも、信頼できる医師でなければ、自分が「うつ病」の症状が出た経緯を話すこともできないし、経過も適切に伝えることができない。

 

ただ、どの心療内科の医師も、適切な知識とカウンリング技術は正しく持っていると思うので、あとはやっぱり好みの問題なのかもしれない、と思う。

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本当に体も心も辛いときは、週に一度の通院が本当に酷な作業だった。医師に話すことも、また仕事で失敗してしまった、副作用で眠い、なのに薬が少ないせいか眠れない、うまく訴えることもできないし、薬の服薬ですら、よく間違えてしまうことも多く、こんなこともできないのか、という落ちた気持ちで誰かと話をしなければならない、そんな辛さがあった。

 

会社の産業医とは別に個人で通院していたので、産業医との見解の違いもあった。通院先の医師は、特に休め、ということも継続して働き続けろ、ということも言わなかった。

最終的に、産業医が判断し上司に掛け合ってくれて、そのまま休職することがきまったが、それについても通院先の医師からは特段の指示はなく、診断書はこちらから頼めばすぐに書いてくれた。

 

カウンセリングでは、主に何をして過ごしていたか、気分はどうか、体の症状はどうか、といったことの話から始まり、家族のこと、仕事のこと、これからどうするか、などといったことも含め、そのときどきの調子によって、薬の分量を変えたり、薬自体を変えたりをして、治療が続いた。

 

ちなみに薬の分量は、現在ジェイゾロフト100mg、レメロン(リフレックス)15gを一日1回、セニラン(レキソタン)を一日2回、という組み合わせでしばらく安定している。

以前はこれに加え、睡眠導入剤も飲んでいたけれど、最近はそれ無しでも眠れるようになった(レメロンの導入効果が強いのもある)。

 

気分的にはとても安定しているけれど、たぶん相当量の薬を服薬しているほうだと思う。毎日、大量の薬を飲むたびに、自分はまだまだ病気なんだ、と感じる。

 

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薬の量や種類の増減はほとんどないので、いまはカウンセリングの治療がメインになりつつある。ほとんど人生相談みたいになってきている。

転職先はこんなとこです、やっぱり主夫になります、いまやりたいこと探ししてます、とりあえずゆっくりしています、どうしましょうか??等々。

 

いまは、ほとんど不安に駆られることも少なくなってきた。でも少ないだけで、やっぱり何か失敗すると極端な思考になりやすいし、基本的には自己否定から全てが始まる。そもそも、相当量の薬を飲んでるし。

 

正直、今後どう病状が改善するのか、薬量は減っていくのか、などよく分からなくて不安なこともある。

でも、「うつ病」は僕にとっては、短期的に治るものではなく、長期的に付き合っていかなければならない慢性的な病気なようで、病気と付き合うととともに、まだしばらく医師との付き合いも続けないといけないみたいだ。

 

週に一度、病院に行く。

今のところ、僕の生活のなかで絶対的に課せられている義務はこれだけで、病人としての僕はこれに従っている。

それは決してそんなに悪いことじゃない、って気がしている。