少し、日本びいきにすぎるような、レヴィ・ストロースによる日本に対する語り。
日本の美意識文化の根源を縄文精神に見出し、様々な文化に驚くべき順応性を持ち独自の日本文化を築いてきたと評する。
日本は、主体から思考を出発させない。ちょうどデカルトの「我思うゆえに我あり」の否定のように。
自分を取り巻く環境から自分自身を規定する。
そのため、「日本とは何か」という問いに対し、自分自身もあいまいにしか答えることができない。
日本人は「日本的な何か」を持ちながら、資本主義を受け入れ、近代化を成功させた。
日本文化の特殊性は、ときに両極端にあるものを隣り合わせにするような順応性にある。
「日本的ななにか」。それらの精神やそれを保持しようとする環境は、一部では過剰な排外性を持つ集団になり、
あるいはグローバル化のもとの均質化の危機にさらされている。
行き過ぎた日本の賞賛は、日本的なものに対する壁をかえって高くしてしまう。
しかし、あえて境界をひかず、様々に取り入れられた各々のものの基本的な要素を同時に強調することで、
より多くの豊かさを日本人は獲得している。
日本は、国土の2/3を占める野生の部分を放置し、都市にすべての資本を一極集中しているが、
一方で月の裏側からの視座では、それらは野生の部分を尊重してきたとみなすこともできる。
また日本人から見ると、雑然とした東京の街は、彼から言わせれば自由らしくていいじゃないか、ということらしい。
安易にこれらの視座を乱用することは偏った愛国精神になりかねない。
実際に、いま「日本」を定義するなかで「日本ならざるもの」が持ち上げられ、愛国さらには神国!といった過熱した右傾化議論がネット上でも散見される。
しかし、レヴィ・ストロースは、日本人は「社会全体が必要としている役割を満たそうとする、それでいてまったく寛いだ感じでそれを行う」とほめる。
そうした彼の贈り物のような賞賛を真摯に受け止めて、この不思議に発達した文化を新たな変容を受け入れつつ、日常にそれらを喜びとして感じられるようにしたい。