一年近く更新が空いてしまいました。
このサイトもいろいろ見直さなければいけないと思っています。
さて、瀬戸内国際芸術祭が行われている小豆島と豊島に行ってきました。
島の距離的にも日常から感じを楽しみたくて、というのもあって、夏の旅行先に島を選びました。
島は、芸術祭の会期中ということもあって、ふつうより人が賑わっていたのだと思います。
ボランティアの案内をしてくれる地元の人もとても親切にしてくれました。
芸術祭の作品は、島のいたるところに点在しています。
小豆島は広さもあって車をフェリーに積んで周りましたが、それでも相当な距離を歩くことになるため、夏会期中は熱中症に注意です。
子どもと一緒に行ったのですが、子どもも頑張って歩いてくれました。
また、子どもと一緒に島の景色を眺め、歩き、夏の暑い島の気配を感じることができたのが、一つの旅の収穫でもあります。
芸術祭の作品の一つ一つはどれも、面白くユーモラスな視点で社会を風刺したり、実験的に独自の世界観を示したりと、いわゆる「現代アート」と呼ばれる類のものを中心に配置されています。
昨年、大地の芸術祭を経験して、「芸術」がなんなのか、と考えていましたが、やはりいろいろと思うことはあれど、答えは出ずに、こうした作品鑑賞においては、「考えるな、感じろ」が一番だと思っています。
ただ、「地域のなかに置かれたアートの意味とは」「地域アートは地域のためなのか」「地域アートはアートたりうるのか」という視点で物事を考察することは非常に重要だと思っています。
地域アートが地域の負担になっていないか、乱立する地域アートのなかで若手アーティストが搾取されていないか、地域アートが現代アートの価値自体を棄損していないか、など地域アートをめぐる問題はさまざまな形でこれまでも議論され、また指摘されてきました。
芸術一般、あるいはそれらを鑑賞し所有することは、もともと上流階級の特権の一つでした。
それが一般に開放されるようになり、いまや芸術は美術館という箱を出てこうした地域の芸術祭をはじめとする屋外展示にもなっています。
当然、それらは私たちの日常に影響を与えます。
私たちの日常に芸術が変化を与えると同時に、芸術自体もその性質を変えていきます。
芸術一般にはどこか社会や常識、一般的なものの見方とは「相反するもの」が含まれています。
それは、芸術家の独自のセンスでもあり、観察眼でもあり、技術・才能が発揮されることによる結果の一つでもあり、芸術が社会に対して一定の疑問を投げかけることでその存在意義を保ってきた、ということもあるかもしれません。
芸術には、現代社会を批判し、風刺し、皮肉に描く力があり、それがある意味許される世界でもあります。芸術で描かれ、あるいは構成される世界は、あくまで虚構だからです。
芸術祭で多くの作品がそれに類するであろう「現代アート」はまさにその社会風刺の先鋒ともいえる存在でした。
なかには、過激なものも多く、世の中から強く非難される作品もあったことと思います。
それが、いまこうして、「地域の芸術祭」という一つの大きなまとまりとなって、現代社会の枠組みのなかで居場所を確保していることが、少し不思議なのです。
芸術祭が地域に馴染んでいるという評価を下していいのかどうかは、まだ分かりませんが、少なくとも越後有妻・瀬戸内の二つの芸術祭は10年近く続けられ、地元の人も手馴れている・飼い慣らしているという印象がありました。
地域に飼い慣らされた芸術は、観光資源として地域に恩恵をもたらします。島に賑わいと金銭的価値をもたらす有益な存在として、多くの人が認識しうるものになり、島民も迎合します。
こうして完成された「地域アート」は、社会的な意味においては成功した「地域アート」になるかと思います。だからこそ、他の多くの自治体がウチもぜひやろう、となるわけで。
一方で、芸術としての消費のされ方としては、本当に正しいのか、やはり疑問は残ります。
私は、瀬戸内国際芸術祭を見に行ってきたと話すことはあっても、○●さんの「~~」という展示を見てきた、とは言わないでしょう。(分かる人には言いますが)
一人ひとりのアーティストが作品に込めた思いがとても薄くなっているようにも感じます。
自然という大きなキャンパスのなかで、発表の場がたくさんある、ということ自体はとても素晴らしいのですが、一つ一つの作品の与えるメッセージを全て受け止めることはできずにいます。
「現代アート」が本来持つべき社会に対する疑問の投げかけ、あるいは強烈な批判、といったものの効果は、果たして届いているのでしょうか。
芸術の側から見たときに、「地域アートが地域に受け入れられること」は喜ばしいことなのかどうか、芸術を専門とせず絵も描けない自分には判断もつきませんが、鑑賞者として改めてこの芸術祭のあり方に疑問を投げかけたいと思います。
地域や鑑賞者、そして社会の側から見たときには、「地域に受け入れられること」は歓迎すべきことです。
地域に新たな価値をもたらし、あるいはそれまで持っていた地域の価値を再び輝かせてくれ、地域の人々の再発見・再認知とともに新たに人と人とをつなげている。
「アート」には、こんな喜びをもたらしてくれる力があるのだ、と。
そして、少しでもアートに興味を持ってくれた人がまた別の芸術を鑑賞することで、アートや芸術を延命させていく。
そんな好循環は、夢のように描けることと思います。
それが、「現代アート」の望んでいる姿なのか、鑑賞者としてこの問いを投げかけたい。
地域アートの話が主になりましたが、小豆島も豊島も本当にいいところでした。
海のきれいさに驚き、想像以上の島の山深さに驚き、日常から意識を離れて、純粋に旅を楽しむには絶好の場所でした。
豊島では、民泊を体験しました。島のおばあちゃんの家に泊まらせてもらい、野菜の収穫などをさせてもらいました。
田舎育ちの自分たちにとっては、実家に帰れば同じことはできるのですが、また違う地方での違う暮らしのなかで見るそれらはとても目新しいものです。
たとえ観光地を訪れたとしても、そうした日常の暮らしを見る機会のほうが圧倒的に少ないのです。
「こんなもん、たいしたもんじゃねぇで」と島の人が言うそれらがアートになり得るものであったり、他のだれかにとって変化をもたらす価値あるものだったりする、
たとえそんなものが見つからなくても、そうした可能性を探す作業そのものが、私はとても好きです。
(※民泊でのところてん作り。このハコは、大工のお父さんの手作りだそうだ)